№015 DEKKERと言う男

ラボバンクのエリック・デッケルが寂しい引退となってしまった。
エリックには昔から何か縁がある選手。
俺は87年に高校卒業と同時にオランダへ渡欧。当時ホームステイしていたのは「スケート」「コガミヤタ」「サッカー」で有名なヘーレンフェーンと言う北の街。フリースランド州と言う独自の言語と文化を持つ、アムステルダムから見ると「僻地」。
ステイ先だったホフさん一家の次男坊ヤンは俺より2歳年下で、オランダ北部の期待の星。そして俺にとって最初に越えなければならない「ライバル」だった。
フリースランド州は独自で州選手権をするにはメンバーが少なく、南に位置するドレンテ州や北東部のグローニンヘン州と合同で選手権を行っていた。
この地域ではフリースランド州のフェーンストラ三兄弟(長男はモトローラやコールストロープでプロ、次男は87年のジュニアチャンピオン、末っ子はシマノ鈴鹿で優勝している)、87年のオランダアマチュアチャンピオン、ヨナネス・ドラーヤ(日本にもシマノグリーンピアに来日。そして88年だったかに心臓発作他界した)、トニー・ターベン(結局プロ入りせずに引退)、そしてドレンテ州のデッケル兄弟(エリックの上にもプロ選手の兄ディックがいた)が注目されていた。
ステイ先のヤンは中学生(ニューエリンヘンと言うカテゴリー)の合同州選手権でデッケルを撃沈。フリースランドのジュニアでも急に注目される選手となった。

87年のジュニア世界選手権ロード。イタリアのベルガもで行われ、トンコフが優勝しデッケルが2位だった。このときエリックは16歳。
ちなみにフリースランド州選手権、オランダ選手権を制したフェーンストラは世界選手権の代表にはなれなかった。
バルセロナ五輪ではカザルテッリに負けて銀メダル。しかし要所で必ず上位に絡むデッケルは俺と同じ94年にプロ入り(だったと思う)。
だが伸び悩んだ。
プロ入り後、多くのレースで一緒になるのだが、なかなか彼の力に相応しい結果を見ることなく年月が過ぎていく。多分選手時代から我慢の人だったテオ・デ・ローイが監督でなければ、とっくに他チームに飛ばれていたに違いない。
2000年。ツールで3勝、クラシカ・サンセバスチャンで優勝など、ようやく大器が一気に花開いた。そんな一流選手の仲間入りを果たした後でも俺のような一流じゃない選手に対してもきちんと話をしてくれる、オランダ人らしい頑固さ、自分の道を決めたら突き進む、人に流されないスタイルが格好良かった。
デッケルは冬になるとシクロクロスの会場でも目にすることがあった。ロードでもオランダ人に多い頑固一徹「鋼鉄の人」のイメージは彼にはなく、いつもスタート前は陽気ではしゃいでいる。ちなみに俺の中では引退しているがツールの区間賞をとったことのあるロブ・ハルメリング、ゲルトヤン・チュニス、イェレー・ネイダムは「鋼鉄の人」のイメージそのものだ。
シクロクロスでの話し、あるスーパープレステージシリーズのレースでシクロクロスの世界ランキング順にスタート位置がコールされていく。俺や日本人選手が日本で獲得したポイントのおかげで「その他全員前へ!」ではなくコールされた瞬間、エリックが「はぁ〜〜〜??お前世界ランキング保持者かよぉ〜〜〜!!」と大声で指差しされてしまった。冗談半分に肩をうなだれている彼にみんなが笑い、集団からはスタート前のいつもの緊張感がなくなってしまっていた。
しかし彼は恐ろしいスタートダッシュで集団の先頭に駆け上がり、チームメートのグローネンダールとネイスをオフロードへ一番乗りさせ、そのままなぜかコースアウトしていった・・・

2002年のパリ〜ブリュッセルでは、ベルギー国境に入って有力選手が動き出した。そのときの映像を見ると俺はデッケルに反応し一緒に逃げ集団に乗っていた・・・
俺もいつの間にか若くない。引退していても不思議じゃない。同じ世代の選手はもうほとんどいなくなってしまった。その中でまだまだ気を吐く選手がいる。俺も自分のことのように応援している。だがいつかは必ず引退しセピア色になっていくことを止められない。
もし10年以上経って、もしデッケルと言う選手がみんなの記憶の中でセピア色で残っているなら、一緒に覚えていて欲しい。俺もデッケルと同じ時代に走っていたんだと。
同じような輝かしい成績はないけれど、同じレースを走り、そして実はちょっとした知り合いだったんだぜ!と・・・